嵐山情報

その美しさは時代を超え、多くの人を惹きつける。

四季折々の美しい表情を見せてくれる京都随一の景勝地「嵐山」。そんな嵐山を愛する店主がお勧めするスポットをご紹介します。

大堰川

嵐山のふもとをゆったりと流れる大堰川。緑美しい京都府北桑田郡から流れ出し、亀岡盆地を経て急流で有名な保津川となります。嵐山付近で静かな流れとなって再び大堰川と名前を変え、さらに渡月橋をこえると桂川となるのです。昔から人々はこの川に船を浮かべ、春の桜・夏の鵜飼・秋の紅葉・冬の雪景色と、四季の風光を賞でてきました。今日でも、平安王朝を再現する祭りや行事が1年を通して行われています。

  • :三船祭(5月第3日曜日)
  • :鵜飼(7月1日~9月15日)/精霊送り万灯流し(8月16日)
  • :斎宮夢行列(10月21日)
  • :もみじ祭(11月第2日曜)
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千鳥ヶ淵

嵐山の麓・滝口寺の付近には、大堰川で最も底深い「千鳥ヶ淵」と呼ばれる場所があります。その深さは5メートルとも7メートルとも言われ、保津川の急流が大きな堰によって流れを失い、瀞(とろ)※となっているのです。
この淵は、底深く美しい緑の水をたたえ、龍がひそんでいるかと思われるほどの凄みをもっています。昔、建礼門院の侍女・横笛(よこぶえ)が滝口入道(たきぐちにゅうどう)を慕って嵯峨まで尋ねたが、入道はすでに出家の後。面会しなかった彼を恨んで、横笛が身を投げた所がこの淵と伝えられています。
※ 瀞(とろ)…河川の流れの中で、水が深くて流れの緩やかな所。

  • ~謠曲「横笛」~
  • 井堰にかかる波までも、涙の波の大井川、
  • 暮るれば凄き千鳥ヶ淵、なくなく死骸を引き上げて(下略)
  • 淵の名の千鳥も鳴きて大井川かは風寒く夜は更けにけり 英忠
  • 花の雪千鳥が淵に亂れけり 晩翠

なお昭和35年、千鳥ヶ淵の上の嵐山が大雨による土砂崩れを起こし、川沿いの樹木も流されてしまいました。その後補修されましたが、樹木の生い茂った以前の幽邃な景観が失われたのは残念です。

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渡月橋

嵐山のシンボル・渡月橋。地元ではこの橋から上流を大堰川、下流を桂川と呼んでいます。現在の橋は昭和9年の建造ですが、古文書によればその歴史は古く、奈良時代まで遡るようです。平安時代は法輪寺への参詣路として使われたため「法輪寺橋」と呼ばれ、「渡月橋」と名付けられたのはその後とのこと。これは橋の中央に立つと川下の東より月が出て、橋の真上を渡ってやがて西の嵐山の峰に隠れる様を、亀山天皇が「くまなき月の渡るに似たり」とおっしゃられたことに因んでいます。当時の橋は壮麗な木組みで朱に塗られており、今より100メートルほど上流にあったそうです。それから何度も架橋が繰り返され、角倉了以(すみのくらりょうい)が大堰川を開いたとき、現在の場所に移し替えたと伝えられています。現在でも橋周辺からの眺めはすばらしく、嵐山をバックに川に架かる渡月橋の美しさも絶景です。

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大悲閣

渡月橋より大堰川の右岸を800メートルほど進むと嵐山温泉があります。その道の傍らに芭蕉翁の句碑が立ち、その碑面には、花の山二町のぼれば大悲閣 はせをと刻まれています。大悲閣とは、恵心僧都(えしんぞうす)が刻んだとされる千手観音を本尊とし、寺号は「千光寺」といいます。もともと清涼寺の西にありましたが、大堰川などの開削で活躍した江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)がここに移築。晩年をここで過ごしました。 大悲閣には樹木がよく繁り、また嵐山の中腹に座すことから眼下に大堰川、東には亀山越しに洛中や北山・東山が一望でき、四季を通じてその風景は格別です。

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落柿舎

芭蕉門下十哲の1人、向井去来の隠居所跡。入り口には、主人の在宅をあらわすという笠と蓑がかけられ、茅葺屋根の素朴な佇まいを見せています。
落柿舎の名前の由来は『落柿舎記』に次のように記されています。去来が移り住んだ当時、周囲に40本の柿の木がありました。商人が立木のまま柿を買い求める約束をしましたが、その日の晩に大風が吹いて柿の実が落ちてしまい、商人に代金を返しました。以来、去来は自ら「落柿舎の去来」と名乗り始めたといいます。去来の師でもある松尾芭蕉は、元禄4年(1691年)4月18日から5月5日まで落柿舎に滞在して『嵯峨日記』を記しました。敷地内には、去来の「柿主やこずゑは近きあらし山」などの句碑とともに、投句箱もございます。ここで一句、したためてみてはいかがでしょうか?

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野宮神社

竹林の奥に位置する野宮神社。黒木の鳥居は、クヌギの木の皮を剥かないまま使用する、日本最古の鳥居の様式の鳥居。柴を束ねた小柴垣と共に、今なお平安の風情を伝えています。
野宮は、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、現在の場所が使用されたのは平安時代のはじめ仁子内親王(嵯峨天皇皇女)が最初とされています。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶。その後は神社として存続し、時代の混乱の中で衰退していきましたが、明治40年に京都保勝会により改修を済ませ、今の姿となりました。謡曲『野宮』や源氏物語で有名な野宮神社は、今では嵯峨野めぐり起点としてにぎわい、縁結びや子宝安産の神様として、全国から崇敬を集めています。

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天龍寺

臨済宗天龍寺派 大本山
足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈り、暦応2年(1339)に亀山殿跡へ建立。康永4年(1345)には夢窓疎石を開山に迎え、後醍醐天皇法要を兼ねた落慶法要が営まれました。その後100年余り、たびたび火災や応仁の乱など戦火に巻き込まれましたが、歴代の住持による懸命な修復・復興事業が進められ、明治には他の臨済宗各派と共に開いた天龍寺派の大本山となります。また明治32年(1899)には、法堂、大方丈、庫裏が完成し、大正には小方丈、昭和には多宝殿などが再建されます。なお、平成6年(1994)12月には、境内がユネスコの世界遺産に指定され、亀山と嵐山を借景にした池泉回遊式庭園は、特別史跡名勝に認定されています。他にも天龍寺では、法華堂に嵯峨天皇陵・亀山天皇陵が祀られ、重要文化財として釈迦如来像、夢想国師画像、観世音菩薩図、雲門大師図・清涼方眼禅師図が指定されています。

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二尊院(小倉山二尊教院華台寺)

天台宗 延暦寺派
承和年間(834~847)嵯峨天皇の勅願により、円仁が創建したと伝えられています。以後衰微したところを鎌倉初期に法然の高弟・湛空らが再興しますが、応仁の乱により堂塔伽藍が全焼。永正18年(1521)に、本堂と唐門が三条西実隆によって再建されました。ご本尊は、釈迦如来立像・阿弥陀如来立像の二如来像。絹本著色法然上人像は重要文化財に指定されています。

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常寂光寺

文禄5年(1596)、日蓮宗本圀寺・日禛上人の隠居所を一寺に改め、常寂光寺となりました。小倉山を背に閑静なところから「常寂光土のごとし」と、寺号が付けられたといわれています。高さ12m重要文化財の多宝塔は上からの眺めがことのほか美しいとして知られています。また、仁王門・謌僊祠・藤原定家の真筆和歌・小督の車琴など、寺宝があります。

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清涼寺 浄土宗

光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(みなもととおる)の山荘の一部。8世紀の初頭、奝然(ちょうねん)上人が中国より伝来した釈迦瑞像を安置して清涼寺(通称 嵯峨釈迦堂)となりました。本尊は阿弥陀三尊で、源融の供養のために、その子息が造立したものとされています。境内の中は、一切経蔵・愛宕権現社・聖徳太子殿・源融の墓・多宝塔・阿弥陀堂などがあり、阿弥陀本尊・毘沙門天の立像は国宝に指定されています。

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トロッコ列車

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